December 26, 2007

考察5(ナユタ)

20071226.jpg

どうも。今回も、またまた前回の続きです。そろそろ、伏線を回収していきたいと思います(無理に風呂敷を広げても畳めなくなりそうですし...)。





これは、僕だけでなく誰しも一度は考える事だと思ふのだが。









自分って、いったい何なんだろう?って。










実際は一番近くにいて、一番よく知っているはずなのに。僕たちは、自分の顔すら直接見る事すらかなわない。鏡や写真から、自分らしきモノを認識する事はできる。しかし、そこに映っている「自分」が、隣の人が見ている「自分」とは同じ証拠はない。極端な話。僕が見ている景色と、君が見ている景色は全くの別の景色で。交換可能な認識のみで繋がっていたとしたら...。





...キリが無い。言い出したら本当にキリが無いけど、心はもっとそうだと思う。





形もなく、直接比較することもできない心はもっと曖昧で。周りの言動や仕草から自分の心らしきモノを認識できる程度である。





しかも実際は、普段から心を開拡げにしている人はそういないと思ふし、時には嘘だってつく。考えが変わる事もあるし、全ての感性が合理的に機能しているわけでもない。





そこから導きだせる人間の内面なんてのは、酷くイイカゲンである。





しかし、酷くイイカゲンであるにも関わらず、人は何の気なしに生活する事もできる。それが、高い認識からくるものなのか、単に「自分は他者とは違う特別の存在だ」といった類いの突出した自意識なのかは存ぜぬが。





とにかく、悩みの根源はここにあるのだろう。と。





何が正しくて、何が間違っているのか?」等と話を進めるとコギト世界に飛び込んでしまいそうなので、少し違ったアングルから(笑)。










例えばもし誰かに「好きなものって何?」って聞かれたら、誰しもすぐに好きなものが浮かぶと思ふ。その理由を聞かれても、いくつも理由を挙げられると思ふ。でも、その理由のほとんどが、好きになった後から出来た理由だったりもする。





つまり「〜といふ理由だから好きになった」のでなく、好きになったモノをより好きであるために、人は無意識のうちにいくつもの理由で押し固めてしまうのではないかと。





それならば自分の「本質」も、偏見に塗れた理由の中でなく、初めて対峙したその時の衝動の中にあるのではないか。と。好きor嫌い等といふ原始的な価値観の中にこそ自分の本来の姿があるのではないか。と。











しかしここまで回帰すると、懐古主義ですらない只のニヒリストになりそうだ(笑)。











後、もう少しなんだけど.....。つづく。





shinsaku1975 at 12:15 │Comments(0)TrackBack(0)clip!B/ナユタ 

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